御新田太鼓の産声(世代を越えた地区民の心のきずなを深めるため、なにか伝承できるようなものを〜)
岩崎新田地区は昭和7年、隣町金ヶ崎町の県立六原青年道場(現在県立農業短大)に学んだ県内の次男、三男の11人が新天地に夢をかけ、開拓民として入植したのが始まり。一帯は広大な山林原野。フロンティア精神に燃えた血気盛んな入植者たちは、ランプ生活をしながら、ひとクワづつ切り開くなど重労働にくじけず汗と涙でコツコツ開墾し、小麦やひえ、そば、野菜などを栽培した。食料増産時代の戦後、県内各地から入植者が相次ぎ、酪農が盛んになった。しかしほとんどの人々は多額の借金を抱え経営は苦しかった。そこで県は大規模県営農圃場整備事業として昭和42年から10年計画、総事業費103億円を投じ、約4300ヘクタールを皆伝、一大田園地帯になった。
昭和61年当時の農家は約110戸。経営は安定しているが、同地区は入植以来54年と歴史が浅いため、郷土芸能はゼロ。和賀町内各地区には岩崎鬼剣舞、煤孫ひなこ剣舞など郷土芸能が昔から引き継がれているが岩崎新田地区は"エアポケット"になっていた。
体育振興会で伝承活動として郷土芸能を作ろうとの声が高まったのは、その年の春。そこで今会長ら会員があれこれ話をし太鼓に着目、それを創作することに決まった。楽譜を斎藤岩沢小学校長に依頼、高橋徳夫西中学校長が地区名にちなんで「御新田太鼓」と名づけた。太鼓のリズムは4分の2拍子で、斎藤校長から振り付けの指導も受けた。
煤孫小学校2年から6年生6人を対象に岩崎農場公民館で特訓が始まったのは9月末から。毎日夜2時間の猛練習に子供たちは励んだ。酒樽を相手に子供たちのバチさばきはめきめき上達した。晴れ舞台となった岩崎農場神社落成祝賀会では西・東両中学校から大太鼓三個を借りて、子供たちはバチさばきも鮮やかに威勢良く打ち鳴らし、集まった約200人の地区民から盛んな拍手を受けた。練習の成果が発揮され上々の出来だった。
これに自信をつけた体育振興会では、御新田太鼓を継承することになり、会員の一人である高橋盛さんは「太鼓の新調や後継者の開拓など課題は多いが、地区の郷土芸能として長い時間をかけながら育てていきたい」と抱負を述べた(岩手日報昭和61年10月30日記事)。

平成元年には地元青年会組織「拓新会」(高橋一美会長以下20人)が、御新田太鼓の後継を引き継ぎ10月から石川幸男さんら10名で稽古をスタートさせた。当時23,24歳の若者で、うち女性は3人。男性のほとんどは会社員で、いずれ農業を継ぐ長男ばかりだった。
石川さんらはポケットマネーで衣装を新調、受け継いだ大太鼓3個では足りないため、拓新会からも資金を工面してもらい新たに5個購入した。鍛治町にあった「たんや龍神ばやし」の千葉邦夫さん(故人)指導のもとの特訓で、その成果を平成元年10月19日の和賀町商工祭りで初披露となった。わずか13日間の練習だったが、バチさばきも鮮やかに見事な熱演に盛んな拍手を浴びた。石川さんらは「活力ある地域作りや地区民のふれあいを図るためにも伝承し、郷土芸能として定着させたい」と離していた(岩手日日記事)。


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