■煤孫の田園に建つ古刹
■泰嶺和尚が草庵を結ぶ
当時に『慶昌寺縁由記』が保管されている。これは延享
3年(1746)十一世一乗竜音大和尚が著したものです。
同記及び『世代譜』によれば、鎌倉時代後期の建武年間
(1334〜1336)の頃、鎌倉にある建長寺の法幢山泰嶺
(ほうどうたいれい)大和尚が退院(隠居)したのち、
全国を行脚しながらこの地にやってきました。
泰嶺大和尚は和賀氏の本城だった二子(ふたご)城
(別名・飛勢(とばせ)城を訪ねました。やがて
泰嶺大和尚は流俗を嫌って、この地に留まることを決め、
煤孫の長出の庄(現在地付近)に小庵を結びました。
泰嶺大和尚は(法幢庵)と号して住まいしたといいます。
ちなみに、泰嶺大和尚が居住した建長寺は臨済宗建長寺派の大本山であり、鎌倉五山の一位に列する名刹で
あります。創建されたのは建長5年(1253)にまでさかのぼります。宋の欄渓道隆禅師が鎌倉幕府執権北条時頼に
請われて開山したといいます。
■壁翁道換大和尚が再興開山
後年、仙台藩嶺の三照(みてり)村(現・江刺区稲瀬)
の正源寺五世の壁翁道換(へきおんどうかん)大和尚が
当地にやってきた。道換大和尚は当時、荒廃していた
法幢庵を復興し、法幢山慶昌寺として開山しました。
永禄12年(1569)のこととされています。道換大和尚
は17年間在住したのち、慶昌寺で示寂しました。
なお正源寺は山号を照峰山といい、やはり曹洞宗の
寺です。慶長19年(1614)伊達政宗の重臣だった後藤
孫兵衛信康が大檀美津越になっており、開山したのは
正源寺(水沢市黒石)の続灯庵二世在山融待つ大和尚
(文明4年・1472示寂)なので、宝徳元年(1449)以降
から文明4年の間の開山と思われます。
寿庵堰を作り、今日の穀倉地帯を築き、善政を行った
水沢福原城主キリシタン後藤寿庵は、後藤孫兵衛信実
の義弟にあたります。
■現在地に七堂を建立
寛文10(1670)当時五世天辰文堯大和尚は、堂宇改築に際し旧地(現寺村)より数百メートル北西の現在地に
移転しました。
堂宇改築に伴い、七堂が建立されたとの記録が残っている。田園地帯に現出したそうそうたる景観に近隣在住
の人も目を見張ったことでしょう。当寺の隆盛ぶりが想像されます。